日曜日, 7月 31, 2005

「蒲焼」といえば、もっぱら鰻の付け焼きをさしますが、その語源はといいますと・・・・・・。

  ● 焼いた時の香しい匂いが早く鼻の孔に伝わるから香疾焼と言う(藤原明衡『新猿楽記』)
  ● 焼いた色が紅黒くて樺の皮に似ているから(山東京伝『骨薫集』)
  ● 鰻の口から尾まで丸のまま竹串を通して塩焼きにしたものが、水辺に生じる蒲の穂に似ているから(斎藤彦麿『傍廂』)

など、諸説が伝えられていますが、蒲の穂に似ているというのが有力と思われます。

■鰻の歴史
鰻を食用とした歴史は古く、日本の先史時代の古墳からウナギの骨が出土しています。しかし、どのように調理していたのか、食法は不明。その後、『風土記』、『万葉集』、『本草和名』などの文献にムナギ(ウナギ)の記述が見られ、調理法については未だ謎も多いようですが、塩などの調味料で味付けし焼いて食べたようです。関西では安土桃山時代には一般的に広く食されるようになりました。

■蒲焼の歴史
室町時代末期(16世紀中頃)には案出されていたといわれます。当時、蒲焼とは鰻に限らず、竹の串の周りに魚の肉のすり身をつけ、火であぶったもので、今日の竹輪の先祖みたいなもの。また、鰻の口から尾まで竹串を通して丸焼きにしたものなどをさしていました。

しかし、これらのことはすべて、上方のお話しです。 

江戸では、元禄時代(1688~1704年)には鰻の辻売りや、鰻屋が現れてきたと、物の本に書いてあります。また、当時の好色本『産毛』に露店風景として、鰻屋の行灯に「うなぎさきうり」「うなぎかばやき」という文字を見い出せます。

なお、江戸の風俗・文化の研究者、三田村鳶魚は『天麩羅と鰻の話』のなかに、
[うなぎ蒲焼は天明のはじめ上野山下仏店にて大和屋といへるもの初めて売出す]
と、『世のすがた』(1833年・天保4年刊)から引用し、鰻屋ができたのは天明のはじめであることは間違いない。と書いております。元禄と天明では百年近く差かありますが、調理方法によって時代のひらきがあったもようです。

 安永のはじめ(1770年代前半)、『けふはうなぎの日』という貼り紙が宣伝に使われ、「土用」と「うなぎ」が結びつきました。この名文句(?)を考え出したのは、平賀源内(風来山人)とも大田南畝(蜀山人)ともいわれています。以来、夏の土用の丑の日に〝うなぎ〟を食べて夏痩せを防ぎ、精気をつけよう。ということが、庶民の間で定着しました。これは医学的にも、夏負けした時、体力の回復を促すといわれる〝エレクチン〟が鰻に含まれていることで立証されます。

 今日の「江戸前蒲焼」といわれる調理方法は、背から割き、中骨、腸を除き、皮と肉の間に竹串をさします。そして、強火で素焼きをし、くずれる一歩前まで蒸した後、タレを三~四回付けながら、ていねいに焼くことです。(上方風は昔も今も蒸さない)また、この燃料には、火力が強く熱の度合が一定している、紀州の備長炭が最適といわれます。

 このような、蒲焼の歴史をへて、若い女性や親子づれが、のれんをくぐる時代になり、メニューも蒲焼、鰻重、鰻丼、胆焼、胆吸、鰻巻など多彩な鰻料理が現れるようになりました。